延喜式神名帳

 平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、 二十二年後の延長五年(927)十二月に完成した。
 五十巻三千数百条の条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係である。  延喜式巻一から巻十のうち、巻九・十は神名帳であり、当時の官社の一覧表で、祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社 (天神地祇三千百三十二座)を国郡別に羅列している。ここに記載された神社が、いわゆる「式内社」である。 つまり、式内社は、平安時代(10世紀)にすでに官社として認定されていた神社であり、由緒ある神社として 知られていたことになる。
 いわゆる六国史〔日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、文徳実録、三代実録〕に記載されている神社を国史現在社/国史見在社と呼ぶ。国史現在社である(平安以前に存在していた)にも関わらず「式内社」として延喜式に記載のない社を「式外社」と呼ぶ。

『延喜式』巻第九

天神地祇惣三千一百卅二座 社二千八百六十一處 前二百七十一座
大四百九十二座
三百四座 並預 祈年、月次、新嘗等祭之案上官幣 、就中七十一座預 相嘗祭
一百八十八座 並預 祈年國幣
小二千六百卌座
四百卅三座 並預 祈年案下官幣
二千二百七座 並預 祈年國幣
【大小】 大社と小社。格の違い。
【幣帛】 広義では、神に献る礼物。狭義では、天子・国家・地方官から神に奉る礼物の意味。延喜式では狭義の意。
【祈年】 祈年(きねん)祭。毎年二月四日を祭日とし、幣帛を受け、その一年の豊穣を祈願する。
【月次】 月次(つきなみ)祭。毎年二回、六月と十二月の十一日に、幣帛を受ける祭。その意義については諸説あり不明。
【相嘗】 相嘗(あいなめ)祭。古代、新嘗に先立ち、特定の神社に新穀を供えた祭。延喜式では四十一社。
【新嘗】 新嘗(にいなめ)祭。毎年十一月に、幣帛を受け、その一年の収穫を祝う。祈年祭に対置。
【名神】 天下諸社のうち、特に霊験著しい神社。明神とも称した。延喜式では二百二十六社。
大社一覧
宮中京中
畿内神六五八座
大二三一座
小四二七座
東海道神七三一座
大五二座
就中一九座 預月次 新嘗等祭
小六七九座
東山道神三八二座
大四二座
就中五座 預月次 新嘗祭案上
小三四〇座
北陸道神三五二座
大一四座
就中一座月次新嘗
小三三八座
山陰道神五六〇座
大三七座
就中一座月次新嘗
小五二三座
山陽道神一四〇座
大一六座
就中四座月次新嘗
小一二四座
南海道神一六三座
大二九座
一〇座月次新嘗 就中四座相嘗
小一三四座
西海道神一〇七座
大三八座
小六九座
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官幣社・國幣社

 近代社格制度。明治政府によって定められた神社 の格に関する制度。 維新政府は成立 以来神社の全国的掌握や神社調査を 進めてきたが、その調査が一段落し たので明治四年(一八七一)五月十 四日には、近代社格制度の基礎とな った太政官布告「官社以下定額・神 官職制等規則」を公布、 神社の格を 大きく官社と諸社に分類し、官社と して九十七社を列格した。官社には 官幣の大中小社、国幣の大中小社が あり、官幣社は神祇官が、国幣社は 地方官が祭るものとされ、それぞれ 神祇官の所管とされた。「官幣」「国 幣」の名称は『延喜式』の社格を踏 襲したものである。 また諸社には府 社、藩社、県社および郷社が置かれ たが、藩社は同年七月十四日の廃藩 置県によって藩が消滅したために、 実際に藩社に列格された神社はなか った。
 当初官社として列格されたのは九 十七社で、(中略)この後、官幣・国幣の大中小 社のいずれにも分類できない神社と して別格官幣社の制度が導入された。
 (中略)また郷社の下に村社設けられたが、これは四年七月四日の 「郷社定則」で郷社の附属として設 けられたもので、同年五月の太政官 布告ではいまだ存在していない社格 であった。このように近代の社格制 度は四年五月の太政官布告でその基 礎が成立したのであるが、この時点 ではなお流動的であり、その後神社 調査の進展によって続々と官社や府 県社、郷社に列格、あるいは昇格さ れる神社が増加し、敗戦時には約二 百二十余りの神社が官社に列格された。

−参考『神道事典』−

『玄松子のメモ』

  • 社格とは神社の等級・格式を表したものであるが、戦後社格の制度は廃止された。
  • まず、公的に幣帛を受ける神社を官社、そうでないものを非官社と呼ばれていたが、明治以後は非官社を諸社(民社)と呼んだ。
  • 官社には、官幣社と国幣社とがある。以下に示す性質上の違いはあるが待遇は同等である。
  • 明治維新までは延喜の制を継承し、神祇官から幣帛を受ける神社を官幣社、国司(地方官)から受ける神社を国幣社と呼んだ。
  • 明治以後は、宮内省から幣帛を受ける神社を官幣社、国庫から受ける神社を国幣社と呼ぶようになったが、基本的には延喜の制に変わらない。
  • 官幣社には、皇室の崇敬を受けた神社、あるいは天皇・皇室を御祭神とする神社が選ばれている。
  • 国幣社には、地方との関係に重きを置いている神社が選ばれた。
  • 官幣社、国幣社にあっては、大社、中社、小社の序列が存在した。
  • 明治五年四月、別に別格官幣社が新設された。これは官社として祭祀されるべき神社ではあるが比較的新しいもの。
  • 諸社とは、府県社・郷社・村社・無格社と区別されていた。府県社・郷社の幣帛料は都道府県が、村社の幣帛料は市町村から供進された。

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諸國一宮・二宮…

 平安時代から中世にかけて行われた社格の一 種。今昔物語(十世紀)に、周防国の一宮玉祖大明神のことが見えるの が文献上の初見であるが、伯耆国の倭文神社旧境内から発見された康和 五年(一一〇三)在銘の経筒に一宮大明神と見えている。 一宮は、恐らく 平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と 考えられる。それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、 諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を有するに 至って、おのずから神社の階級的序列が生じ、その首位にあるものが一 宮とせられ、そのことが公認せられるに至ったもののようである。延喜 式(十世紀)には、一宮の名こそないが、祭祀・神階などの点で、他社 にまさって有力な神社とせられるものが明らかに見られるので、それら の最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位 を附けて行ったもののようである。そして時代の変遷とともに、中に は、一宮が甲社から乙社に移ったものもある。例えば、筑前で住吉神社 が衰えて筥崎宮がこれに代わり、越中国の気多高瀬とが一宮たることを 争ったようなのがこれである。なお、一宮の称は、国についてだけでな く、一郷での、あるいは一社内各神殿での一宮ないし二宮などという称 も行われた。

−参考『神社辞典 』−

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全國総社

 各所の神社に奉斎する祭神を、一箇所に勧請し合祭した神社の称。惣社とも書く。 一般には一国の総社を指していうが、一郡・一郷の総社、寺院の総社、私人宅の総社などの例もある。 各国総社の起源については諸説があるが、平安中期から末期にあると推定され、国司が関与した管内諸社の神霊を、国府に近い便宜の場所に勧請し、奉幣・参詣の簡便をはかったものといわれている。 『白山之記』によれば、加賀国司の使が毎月朔日に一ノ宮白山社二ノ宮菅生石部社など国内八社を巡拝していたが、その煩らいを廃するため、 国衙に接する一所に合祀し、府南総社と名づけたとある。なお武蔵国総社大国魂神社祠官・猿渡容盛(明治十七年七十四歳歿)の『諸国総社誌料』は、未定稿ではあるが国別に資料を揚げ考証を加えている。

−参考『神社辞典』−

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国内神名帳

 諸国において国司が作成した各国内の神社とその神名・神階を記した神名帳。
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